candlestick

「眼鏡でも失くしたの?」
「あたし眼鏡なんてかけてないし」
「知ってる」
「そんなに眼鏡探してるような顔してた?」
「してたよ」
「そんなにきょろきょろしてたかな」
「きょろきょろはしてなかったけど」
「してなかったよね」
「してなかったしてなかった」

「つか、眼鏡探してるような顔ってどういうのよ?」
「このへんにあるはずなのになー的なね」
「このへん?」
「このへん」
「どのへんよ?」
「だいたいこのへん?」
「なんで半疑問なの」
「だってほら、探しものなんて主観的なものだからさ」
「誰か連れてきて視点を変えれば見つかるみたいな話?」
「それが移動しないもので、かつ目に見えるものだったらそうだね」
「そうじゃないと見つけられないじゃない?」
「そりゃ、見つけようとしちゃってるからね」

「見つからないの?」
「そもそも見たことないわけじゃない?」
「そうだけどさ」
「同時に移動してるか交互に移動してるかどっちかなんだけど」
「近づいているとは限らない?」
「相手がどう移動したかわからないというか」
「うん」
「そもそも移動前にどこにいたかもわからないんだ」
「見たことないからね」
「座標系がいっしょっていう保証もない」
「ずいぶん絶望的じゃないの」
「でもま、みんなそうだし」
「それでもみんなうまくやってる?」
「うまくはやってないだろ」
「そうだよね」

「見つけたって言い張ったり」
「見つからないって怒ったりね」
「そういうの得意じゃないんだ」
「うん、そういうのは得意じゃない」

「でも、わかることもある」
「なに?」
「おかしいなー、このへんにあるはずなのになー的なさ」
「ああ、そういうことか」
「でもま、それしかわからないし」
「うん」
「それがどのへんを指すのか具体的にはわからないからさ」
「なんとなくそのへんに現れることしかできないと」
「そういうこと」
「そういうことね」

「で、このへんでよかったのかな」
「ま、いいんじゃない」
「だいたい?」
「ま、だいたいね」

unnamed

「出会ったばかりだっていうのに、彼女の何がわかるっていうんだ?」
「愛してますよ。それで充分でしょう。」

男が言葉に詰まっている隙に強引にドアを閉める。事情は知らないけど、たぶん奴にはそれを言う資格はない。しばらく待って、ドアの向こうにひとの気配がなくなるのを確認してから、振り向いてみる。

「…ごめんなさい。」
「ごめんなさいかどうかはこれから決まるんだから、別に気にすることでもないさ。」

ひどく小声だし、涙をいっぱいに溜めた目でこっちを見てくれるわけでもないし。こういうときは名前でも呼んだらいいんだろうけど、名前なんかまだ訊いちゃいない。ま、いっそ泣いちゃったほうがいいんだろうし、こっちだって現実としての距離感とか掴まないときついから、頭を軽くぽんぽんと叩いてみる。

「とりあえず、世の中みんなが自分より偉いとか自分より優れてるとか、そういうのやめようぜ。じゃないと僕が君を護れない。」
「…うん。」

それこそ堰を切ったように泣き出した彼女の涙を、僕はよく知ってる。右手に残ってる感触にも特に違和感はない。これが運命だとしたら、掴んでいい運命だろう。あとは抱きしめるだけ。それが始まり。母性本能のようなものに半分身をゆだねて彼女のほうに手を伸ばしながら、それでも僕はどこか迷っていた。

「…ありがとう」

聞こえたんだ。まさに彼女の肩に触れようとした瞬間。ほんとに聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声だったけど。それですべてが繋がった。妥協でもなんでもなく、これでいいんだ。もう迷わない。僕は初めて彼女を抱きしめた。できるだけ強く、できるだけ優しく。

「急にどうこうできるとは思わないけど、僕は君のその怖がりをなんとかしたいと思っている。」

頷く隙間なんか残しちゃいないけど、彼女が確かに頷いた気がした。

まにまに

「最近さぁ」
「ん?」
「雨宿りとかしてる?」
「それはこう、新しい挨拶かなんかなの?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「うん」
「したほうがいいよ、と」
「いやだからそれはこう」
「ん?」
「新しい宗教かなんかなの?」

「たとえばほら、ヨットがさ」
「うん」
「そこそこ逆風でも進めるっていうじゃないの」
「いうね」
「あれがよくわからない」
「いやいや」
「いや、理解はしてるんだけどね」
「そうだろうね」
「わからないんだよねぇ」
「んま、わからないでもないけど」
「でしょ」
「本位じゃないだろうねぇ」
「んま、交通機関としてのプライドとかあるにしてもさ」
「うん」
「ひとよりは風に近いと思うんだよね」
「存在としてね」
「だから、ヨットなりでいいんだよ」
「うん」
「風向きが変わるときは、そこそこの確率でなにか言いたいんだと思う」
「風がね」
「うん、でも風語は難しいからさ」
「ヨットに翻訳してもらおうと」
「うん」
「まっすぐ進むだけじゃわからないこととかあるよね」
「わからないというか、気づかない」
「そうそう」

「だからさ」
「うん?」
「雨宿りはしたほうがいいと思うよ」
「あ、そうか」
「そう」
「ま、それはそういう流れなんだよね」
「逆らわないことで、見えてくるものもある」
「うん」
「だから傘はカバンに入れとくことにしてる」
「なんの話?」
「流れによっては持ってないふりもできるでしょ」
「それは逆らわないことになるの?」
「んま、だいたいまにまに」
「なんのまにまになんだか」

「なんなら君のまにまに」
「ま、雨がそう言うんなら仕方ないけどね」
「降らないかなぁ、雨」
「いや、それ言っちゃダメじゃないの」

空を飛べる日

小さいころから、自分は空を飛べるんだと思ってた。いや、今でも飛べると思ってる。だからときどき確かめたくなる。

「いい風だ」

なびく髪で風のかたちがわかるくらいの風。このくらいがいい。つい目を閉じてしまうような強い風は、いろんなものを見失うから。

「たぶん、信じてる」

信じる信じないっていう話に可能性の程度を表す副詞なんてつけたら、無責任だって怒られるかもしれない。だけど、信じるっていうのは虚実の二択なんかじゃない。自分の背中に翼があるかどうかとか、その翼が飛行に耐えうるものかなんてことを、いくら必死になって追認識したって空は飛べない。空を飛ぶっていうのは信頼関係なんだ。信じるべきものは風であって、翼じゃない。だからって盲目的に信じると風の機嫌が悪くなるしさ。

「んなわけで、よろしく頼むわ」

ゆっくりと走り出す。ちょっとずつ歩幅を広げていく。風が興味を示してくれたら、地面を蹴る感覚がだんだん軽くなっていく。つま先が地表を引っ掻くような感じになったら、ちょっとだけ強く地面を蹴る。それだけで、何歩かぶんを軽く飛び越えるだけの揚力は貰えるから。その長い一歩を、身体いっぱいで深呼吸するように感じたら。あとは、なにごともなかったように着地して、また歩き出す。

「ありがと」

それで充分なんだ。空を飛ばないとできない用事があるわけじゃない。そんな奴の気まぐれにずっとつきあってるほど風は暇じゃないし、気長でもない。

「だいじょうぶ、まだ飛べるよ」

おとぎ話は、手の届かないものばかりじゃない。たまに手にとってみるといい。一年ぶりくらいに会う友人と、食事でもするみたいにさ。

contrail

「なんでため息かなぁ」
「あ、ごめん」
「いいよ別に。そんなに悲しそうじゃないし」
「んま、ちょっと安心したからみたいな」
「うん」
「それにしてもねぇ」
「ん?」
「用事ってほどのことじゃないとは聞いてたけどさ」
「なかったでしょ?」
「ないねぇ」
「うん」

「でもまぁ」
「うん」
「これはこれでいいかな」
「そうそう。こんな天気だからね」
「うん」
「外でサンドイッチとか食べるとちょっと幸せじゃない?」
「ま、そうだけどさ」
「ん?」
「何が挟まっててもいいってわけじゃないでしょ?」
「そりゃ、好きな具材のほうがいいけどさ」
「うん」
「挟まってるってことに意味はあるわけで」
「サンドイッチだからね」
「うん」
「んま、噛みしめてみるよ」

「あのさ」
「ん?」
「わさびバターもけっこういけるんだよ」
「そうなの?」
「うん」
「そうなのかもしれないけどね」
「んま、脇役だからなぁ」
「ていうかさ」
「ん?」
「目新しく感じちゃダメなわけでしょ?」
「ま、落ち着かないよね」
「そんなに簡単じゃないよ」
「うん」
「黙られても困るんだけどさ」
「あ、ごめん」
「いや、いいんだけど」
「うん」
「つまりあれでしょ?」
「ん?」
「飛行機雲は雲なのか、みたいな話でしょ?」
「雲には違いないんだけどね」
「うん」
「完全に自然現象ってわけじゃないからさ」
「でもほら」
「ん?」
「水蒸気にしてみればさ」
「んま、他意があったわけじゃないよ」
「でしょ?」
「うん」
「じゃ、雲ってことでいいんじゃないの?」
「そうかな」
「そうだよ」
「うん」

「たいていさ」
「ん?」
「まっすぐだったり、白かったりするじゃないの」
「そうだね」
「だから、照れくさいんじゃない?」
「そっか」

「でもさ」
「ん?」
「ありがとね」
「うん」

iroquois

「何か?」
「あ、なんでもないです。」
「そう。」
「いや、なんでもなくはないです。」
「どっち?」

「誤解を恐れずに言うと、見とれてましたというか。」
「誤解のしようはないと思うけど、理解しがたいなぁ。」
「そう?」
「そういう要素が見当たらない。」
「いや、たぶん要素の問題じゃないと思うんだ。」
「んじゃ、単語の選択を誤ってないかなぁ。」
「そうなんだけどさ。」
「だけど?」
「よさげな単語が見当たらなかったんだよ。」

「少なくとも外見的特徴云々じゃないってことはわかったというか。」
「うん。」
「そっちには食指が動かないってことでしょ?」
「いや、そうじゃなくて。」
「そう?」
「てか、食指ってどうなのよ?」
「んま、適切じゃないのはわかってるけどさ。」
「でしょ。」
「そこで微妙に赤面するのはどうかと思う。」
「なんのテストなんだか。」
「いや、試されるのは好きじゃないんで。」
「だよね?」
「試してないよ、たぶん。」
「たぶん、ね。」

「で、何の告白だっけ?」
「いつの間にそんなコーナーになったんだ。」
「違うことにしとく?」
「違わないよ。」
「でしょ。」
「違うって言われると激しく抵抗したくなるのはなんでだろ。」
「それを訊きたいのはこっちなわけで。」
「そうなんだけどさ。」
「うん。」

「もう何を言っても説得力なさそうな展開だしなぁ。」
「付加価値もなにも。」
「そうだけど、もう直球もなにもさぁ。」
「そうだよね。」

「誤解を恐れずに言うと、好きですよ。」
「誤解のしようはないと思うけど、理解しがたいなぁ。」
「そう?」
「そういう要素が見当たらない。」
「いや、たぶん要素の問題じゃないと思うんだ。」
「んま、要素の問題だったらちょっと嫌だけど。」
「んま、なくはないんだけどね。」
「そう?」
「やっぱり説得力ないよ、これ。」

「で、このあと食指の話だっけ?」
「やっぱそっち行くんだ。」
「いや、流れ上そういうことかな、と。」
「何の流れなんだか。」
「で、そこで微妙に赤面するのはどうかと思う。」
「つか、試されるのは好きじゃないんだよね?」
「試してないよ、たぶん。」
「そう?」
「たぶん、ね。」

サカナノ

「あのさ。」
「何?」
「あたしのこと、どう思ってる?」
「好きですよ。」
「いや、そうじゃなくて。」
「いや、そうじゃないなら、そうじゃないって言ってくれないとさ。」
「ああ。」
「微妙に恥ずかしいのが、いちばん恥ずかしいわけだし。」
「うん。ごめん。」

「ま、いいとか悪いとかは別だけど。」
「うん。」
「素でやってるのか、自分を護るためにやってるのか判りにくいというか。」
「うん。」
「護るにしてもさ。無意識にやってるのか、わざとやってるのか判りにくいというか。」
「そっか。」
「多かれ少なかれ誰でもって話でもあるわけだけど。顕著といえば顕著かなぁ。」
「そうだろうね。」
「通常は問題ないんだけどね。」
「通常はね。」
「うん。そこそこの距離感ならさ。人間性を判断する材料はむしろノイズのほうに多く含まれているわけで。」
「うん。」
「そのレベルでの相性とか好き嫌いとかもあるし。」
「まぁね。」
「ま、好きなんだけどさ。」
「訊いてないけどね。」
「ただほら、特定のひとと、ある程度以上仲良くなっていく過程って話だったら、相手がその境界線上にかかったあたりで、必要以上に傷つけてしまう可能性が高いというか。」
「うん。」
「ほぼ確実に傷つけると思います。」
「だろうね。」

「でもま、この件に関しては、冷静に観察しにくい事情もあるんで。読み違えてるかもしれないんだけどね。」
「どうして?」
「好きだから。」
「いまのは、分かってて訊いたよね?」
「うん。ちょっと試してみた。」
「いや、不確定要素のある内容じゃないと思うんだけど。」
「あるよ。」
「あ。こっち側じゃないのか。」
「うん。」
「で、どう?」
「どうだろ。悪くないかな。」
「そっか。」
「うん。」

「まぁ、あれだ。」
「ん?」
「読み違えてはいなかったってことで。」
「うん。」
「恋なんてそんなもんだし、いいんだけどね。」
「魚の?」
「うん。魚の。」
「ま、お互いさまかなと。」
「魚の?」
「うん。魚の。」

cabinet simulator

「おつかれさま。」
「あ、おつかれさま。奇遇だねぇ。」
「うん。」
「ん?奇遇じゃないの?」
「うん。」
「そっか。」

「ちょっとさ。何も言わずにいっしょにいてくれないかな。」
「あ、うん。」
「だめ?」
「あ、いいよ。大丈夫。」
「大丈夫の意味がわからないけど。」
「いや、こっちの内部的な問題でさ。いつもいっしょにいるみたいに、何食わぬ顔でいっしょにいるには、いろいろ切り替えないといけないでしょ。」
「そうだよね。」
「何も食っちゃいないわけだけどさ。」
「うん。割り切らないとね。」
「え。割り切らないよ。」
「割り切らないの?」
「切り替えるだけ。」
「うん。」

「ひとつだけ訊いてもいい?」
「何も言わないでって言ったじゃない。」
「いや、大したことじゃないんだけどさ。」
「なに?」
「頭を撫でられるのは嫌いなほう?」
「え。時と場合によるっていうか、相手によるっていうか。」
「ま、そうだよね。」
「何の確認なんだか。」
「ま、嫌だったら微妙に嫌そうにしてくれればいいよ。」
「うん。」
「じゃ、行こか。」
「うん。」

parity bit #3

「あ、いいなぁ、これ。」
「買っとく?」
「いや、買わないけど。」
「買わないの?」
「いや、たぶん来週くらいには買ってると思う。」
「来週?」
「これ自体についてもそうだけど、同じ価格帯の競合製品についてもある程度調べないとさ。」
「でも来週くらいには買うんでしょ?」
「うん。もう十割これ買うと思うよ。」
「ま、一点ものじゃなさそうだしね。」
「そそ。POPの貼られかたから見て、今後一週間で日本中の在庫が捌けちゃうような性質のものでもないでしょ。」
「時間とか手続きが必要なこともある?」
「ま、そういうこと。」

ファーストインプレッションでこれだけのインパクトがあれば、いくら優れた競合製品が見つかったとしても、あたしはいずれこれを買うはずだ。それは確信に近いものがある。だとしても、それらのことについて調べるのに費やす時間が無駄ではないことも、あたしは知っている。それを手に入れたあとで、ほんとうにそれでよかったのかどうかなんて考えるのは、その対象に失礼だと思うし、せっかく手に入れたばかりのものを愛する気持ちが鈍る。それはもったいないことだからさ。

「石橋を叩いて渡るってタイプじゃないと思ってたんだけど。」
「いや、叩くよ。そりゃもう重箱の隅を針で突くみたいに叩くよ。」
「そうだっけ?」
「叩くよ。渡らないけどさ。」
「あ、そっか。」
「単に石橋のスペックが知りたいだけだから。設計者の心意気如何によっては、敬意を表して渡ってあげなくもないけど。」
「ま、いくら丈夫でもね。」
「美しくない橋は渡れないよ。」

何かを選択する局面において、できるだけ多くの選択肢をリストアップしようとするのは、あたしの癖のようなものだ。それぞれの選択肢が一般論としての正解である確率とか、行為として成功する確率なんかもある程度推測できる。だけど、数値の高い選択肢が自分にとっての正解であるかどうかはまったく別問題。てか、あたしの場合はたいてい逆だったりする。だったらなんでその作業を毎回やっているのかというと、たぶん確率が百パーセントのものと零パーセントのものを除外するためだと思う。誰がやっても同じ結果が出るものや、何もしなくても同じ結果になるものに対して、愛とか労力とかを注ぎ続けるのはつらいから。ま、零でも百でもないってことだけ判れば十分。あとは好きなものを好きって思ってるのが間違いなく正解。どんな結果になってもね。

「じゃ、来週くらいにまた来ないとね。」
「いや、たぶん脇目も振らずに買って帰るだけだから。つきあわなくてもいいよ。」
「いや、その脇目も振らずに買って帰るところを見たいわけで。」
「そう?」
「そういう瞬間に立ち会えるっていうのが、友達冥利ってもんじゃないの。」
「そんなもんかなぁ。」
「そんなもんよ。」
「じゃ、つきあって。」
「うん、いいよ。」

parity bit #2

「こっちとこっち、どっちがいいと思う?」
「どういう観点で悩んでるんだか、いちおう聞いておこうかと思うんだけど。」
「デザイン的にはこっちが好きなんだけど、色使いはこっちのほうが好き。」
「たまたまこの店には在庫がないだけで、こっちのデザインでこっちの色使いっていうのがラインナップとして存在する可能性は捨てきれないわけだけどねぇ。」
「でしょ。」
「ただねぇ。この辺の価格帯の服飾って、けっこう調べようがなかったりするわけでさ。」
「店員さんに訊いてもねぇ。せいぜい系列店の在庫くらいしかわからないだろうし。」
「そんなことでバイヤーさん呼んでもらうわけにもいかないし。」
「バイヤーさんにしてみたって、メーカー側の思惑についてはすべてを知ってるわけじゃないだろうし。」
「ま、現場で判断するしかないよねぇ。」
「だから悩んでるんじゃないの。」

そりゃそうだ。あたしたちにしても、あたしたち自身の思惑をすべて知っているわけじゃない。あたしたちの内部にメーカーカタログなんて存在しないし、もし存在したところで、印刷された写真ってのは少なからず色褪せるものだ。一年後に色彩の好みが変わっていない保証なんてない。

「気に入るかどうかの境目ってのは、どのへんにあるんだろうね。」
「元も子もないなぁ。」
「口に出して説明できる理由なんていうのはさ、便宜的なものにすぎないわけでしょ。大多数の選択肢の中から候補を絞り込むためには便利だけどさ。最終的な二択になった時点で、それらはまったく無力になる。」
「まさにそういう局面なわけなんだけどね。」
「うん。」

例えば異性の好みなんかでも、もともと優れた子孫を残すためのスキルとしてあたしたちの遺伝子に組み込まれていたはずなのに、もはや残っているのは動機だけで、スキルとしては空洞化してしまっているような気がする。物欲よろしく便宜的に絞りこんで、やっぱり無秩序に悩むわけだ。ま、動機が本能的なぶんいくらか純粋なものではあるんだろうけど。

「また変なこと考えてたでしょ?」
「いや、物欲と肉欲ってどっちが純粋なのかなとか。」
「いつものことだけど、よくそこまで脱線できるねぇ。」
「ま、脱線には違いないねぇ。」

そうだ。この場合、本能的であるかどうかは免罪符にならない。選択に臨む姿勢によってのみ、その純粋さは決定されるんだ。背後にある理由だの動機だのが問題なのではない。

「でさ。そのへんを踏まえてなんだけど。こっちとこっち、どっちがいいと思う?」
「いや、どのへんを踏まえればいいのかまったく判らないけど。こっちのほうが似合うんじゃないの?」
「じゃ、こっちにしようかな。」
「うんうん。」

他人の助言を受け容れる形で選択を行ったとしても、この子はそれ以上の責任を相手に求めたりしない。そういう了解があるから、似合うとか似合わないとかいったすこぶる無責任な助言が安心してできるわけだ。ま、そういう了解が相互にあるっていう了解が、また相互にあるっていう了解があってこその安心なわけだけどさ。

「あたしとしてはさ。理想的な宗教っていうのがもしあるとしたら、まさにかくあるべきだと思うよ。」
「というと?」
「たまに背中を押してくれるくらいで、あとはこれといって何もしてくれないくらいな。」
「そりゃそう思うけどさ。」

そもそも自分の責任の範囲について正しく理解してるひとは、特定の宗教にのめり込んだりしないものだ。あたしだって初詣に行けばおみくじは引くし、占いだって嫌いじゃない。縁起だってそれなりにかついだりするけど、かつがなかったからといって不安になるわけじゃないし、ましてや不安になりたくないがためだけに縁起をかつぐようなことはしない。

「商売にはならなそうだよね。」
「そうだね。」
「じゃ、買ってくるね。」
「うん。」